| 幻の聖薬「三七人参(田七人参)」の歴史 三七人参(田七人参)はウコギ科ニンジン属の多年生植物で、高麗人参と植物分類学的には同じ仲間ですが、一部の含有成分は高麗人参を遥かに上回るものです。 それを口にできたのは貴族や特権階級の人だけに限られていたほど高価なもので、珍重されていたのです。それだけ稀少なものであったため、黄金に換えられないほど貴重なものという意味の「金不換」と呼ばれていた「幻のお金に換えられないもの」だったのです。 1971年、周恩来首相の指示で三七人参(田七人参)は庶民にも開放されました。ベトナム戦争時には北ベトナム軍が三七粉を使用していたため、その素晴らしい効果がアメリカ軍関係者にも広まったと言われています。しかし、中国政府は、その効果の高さと稀少性を理由に、長年に渡り三七人参(田七人参)の国外への持ち出しを禁止してきました。原料としての輸出は1960年代の初頭から行われていたものの、製品の輸出は中国政府によって許可されておらず、1977年輸出が認められて、初めて三七人参(田七人参)を使った商品が日本にやってきました。
三七人参(田七人参)の名前の由来 三七人参(田七人参)という名前の由来については、さまざまな説があります。一般的には、「茎が3本あり、それぞれに葉が7枚手の平を広げたように付いているため」と言われていますが、いまから約400余年前、1590年の明朝時代、李時珍により刊行された生薬の本「本草綱目」には「葉が左に3枚、右に4枚あるから三七人参(田七人参)と名付けたと言われているがそうではなく、本名を山漆といい、それは漆が物を粘着するように融合させる働きがあるところに由来する」と書かれています。 また「本草綱目の中で三七人参(田七人参)という記述が登場して以降、三七人参(田七人参)と言われるようになった」 という説や、「山漆が三漆(サンシー)と言われるようになり、三七人参(田七人参)(サンチー)となった」 という説もあり、本当のところは分かっていません。 田七(デンシチ)、田三七(デンサンシチ)人参と呼ばれることについては、三七人参(田七人参)の産地に広西省田陽、田東があったためではないかと言われています。
世界最大の三七人参(田七人参)の産地、中国雲南省文山 三七人参(田七人参)の生産地は、中国の南、雲南省から広西省にかけての海抜1200~1800メートルに限られ、ミャオ族という少数民族によって栽培されるようになったと言います。産地の中でも、雲南省文山県は広西省より土壌が豊かで良質の三七人参(田七人参)が育ち、全体の9割を占める産出量を誇る産地となっています。三七人参(田七人参)はニンジン属の中で最も原始的な植物と推定されており、高山植物が平地で育たないのと同様に土壌や日照条件などに対して非常にデリケートで、この地域以外では栽培できない稀少な植物でもあります。 三七人参(田七人参)の栽培 三七人参(田七人参)を稀少なものとしているのには、種を蒔いてから収穫できるまでに3年という歳月を費やさなければならないことと、栽培の管理の難しいことが挙げられます。三七人参(田七人参)の産地?雲南省では三七人参(田七人参)だけで約6600万平方メートルの畑が広がっていますが、三七人参(田七人参)は一つの株で病気が発生すれば、1週間で畑全体に病気が伝染してしまうほど弱い植物でもあり、土の中で根に病気が発生しているのに気付かなければ、畑の全滅や、収穫してみたら根の中が空洞になっていることもあります。 もちろん、収穫までの時間を長くすれば、長くするほど、根自体も大きくなり、グラムも増えるため1個当たりの売値は上がりますが、その分、栽培コストがかかります。山間の農家にとって3年という歳月をかけて全滅の可能性のある三七人参(田七人参)を栽培することは、大変な苦労があると同時に大きな賭であり、かつては、三七人参(田七人参)を盗難から守るために畑の周囲に地雷を仕掛けていたという逸話もある程です。 三七人参(田七人参)が植わっていた畑は追肥によって虫がわき、病気になりやすくなるため、そのまま5年~10年は使わず、自然のカで浄化させます。 また、同じ土地で三七人参(田七人参)を栽培できるのはせいぜい5回くらいと言われ、約40~45年でその土地は使い物にならなくなります。それは、三七人参(田七人参)の根が土壌の養分をすべて吸収してしまうからだと言われています。 |